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Channel: ライフ・キャリアプラン –美容師のための総合WEBマガジン【リクエストQJ】
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余命半年と宣告された美容師。ただいま、後悔しない生き方を爆走中  ーL.O.G SHIBUYA   藤野 慎太郎さん 前編ー

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多くのお客さまに指名され、トッププレイヤーとして波に乗っているとき、悪夢は突然やってきました。全身が痛い。自由に身体が動かない…。サロンに立つ気力すらない。

 

1年前に結婚し、子供にも恵まれ、これから明るい未来が待っていると信じて疑わなかったあの日、突然、病に倒れた藤野慎太郎(ふじの しんたろう)さん。あれから4年。現在は渋谷の人気サロンL.O.G SHIBUYAの店長として活躍する藤野さんに、闘病エピソードをうかがいました。

 

インタビューは前編・後編の2回、今回は前編です。

 


 

働き盛りの24歳。結婚し、息子もいた藤野さんを襲った不幸

 

出身は栃木県です。スタイリストデビューは、実家からほど近い場所にある小山市内のサロンでした。24歳で、毎月200~300万円を売り上げていて、自分はまだまだ美容師として伸びていける! という自信もありました。プライベートでは結婚して子供も生まれ、家族を養っていくためにガムシャラに働いていたんです。体調不良を感じるようになったのは、その頃ですね。まさか自分が重大な病気、ガンに侵されているなんて思ってもいなかったんです。体調不良の原因は、働きすぎとストレスなんだろう。少し休めば大丈夫と自分に言い聞かせていました。

 

そんな不調も、やがて我慢の限界に。地元の個人病院では、ストレスが原因だと診断されました。でもやっぱりおかしい。お腹が痛くて、どんな薬を飲んでも効かない。どんどん痛みも増してサロンに立つことが辛くなってきました。長年サロンに通ってきてくださるお客さまに相談してみたところ、地元の大学病院を紹介されたんです。

 

実はそのとき、精巣腫瘍というガンに侵されていた

 

 

大学病院では、血液、尿、CTスキャンなどさまざまな検査を受けました。その検査結果によって、痛みの原因はストレスではなく、ガンだということが判明しました。しかしこの段階では、どの場所のガンなのかが分からないんです。ガンの元凶を突き止め、症状を把握するためには、さらなる精密検査が必要なのです。そこでPET-CT検査を受けることになりました。

 

実はガン細胞は、ブドウ糖を多量に取り込むという特徴があります。PET-CT検査はガンの特性を利用し、ブドウ糖を取り込んでいる細胞を探すことで、ガンのある場所を見つけていくのです。そのPET-CT検査の結果、精巣腫瘍があると分かりました。さらにガンの進行状況からステージ3Bと診断されたのです。

 

>余命半年と告知されて・・・

 


ガンを克服し、25歳で上京。新天地・渋谷でトッププレイヤーとして活躍!  ーL.O.G SHIBUYA   藤野 慎太郎さん 後編ー

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24歳で結婚し、子供も生まれ、美容師として父親として、充実した日々を送っていた藤野さん。ガンが再発したときは、大きな失望感に包まれたものの、大手術を受けることを一大決心。

 

退院後は、残された人生を精一杯生きたい。そして藤野さんが選んだのは、憧れのL.O.G SHIBUYAで働くことでした。27歳で上京し、現在はL.O.G SHIBUYAの店長として活躍する藤野さんが、自ら実践する攻めの人生を語ってくれました。

 

インタビューは前編・後編の2回、今回は後編です。

 

前編はこちら>>

 


 

ガン再発。絶望の淵にいた自分を救ってくれた親友の言葉

 

 

苦しみ抜いた抗がん剤治療を何とか耐え、半年後に晴れて退院を迎えることができました。退院後の体調は、かなり回復していたと思います。今まで仕事を休んで家族に心配や迷惑をかけた分、頑張って働いて再出発しようと決意しました。そして再び、地元・栃木県内のサロンで美容師として働き始めたんです。

 

ですがそんなふうに上手く事は運びませんでした。退院から半年後、再発していることが分かったんです。失望感で、目の前が真っ暗になり、その状況をなかなか受け止めることができませんでした。そんな僕を救ってくれたのは、親友です。親友が誘ってくれたセブ島旅行中に、いろいろな話をしました。「この旅行が人生で最後の思い出になるのかな」と感傷的だった僕に対して、親友は「治る可能性がある手術があるなら、絶対に受けろ!」と力強く背中を押してくれました。親友のおかげで、もう一度、ガンに向き合ってやろうという強い闘志がわいてきたんです。

 

一大決心し、半日がかりの大手術に臨む。

 

 

二度目は、後腹膜リンパ節郭清術(こうふくまくリンパかくせいじゅつ)という半日がかりの大手術になりました。背中にある大きなリンパを切除するのが目的なのですが、背骨がある背中からメスを入れることはできません。そこで開腹し、臓器を取り出した後でリンパ節を切除するという難易度の高い手術で、全身麻酔で眠っている間に行われました。

 

手術後、目が覚めたときの驚きは忘れられません。祖父母、両親、兄弟、妻の全員が自分の顔を覗きこんでいました。そして僕の全身は10本くらいの管に繋がれて、腹筋が使えないために身動きがとれないんです。それでも手術が終わってよかった。家族みんなと会えてよかった。生きていてよかった、という幸せをかみしめていました。

 

東京で働くという夢を叶えるため、家族と共に上京。

 

 

実はL.O.G SHIBUYAの代表のゆうきさん(長山ゆうきさん)は、足利デザイン・ビューティ専門学校時代の一つ上の尊敬する先輩なんです。手術を受ける前、ゆうきさんに会ったとき、もしガンが治ったら一緒に働かせてくださいと話していました。

 

自分の人生だからこそ後悔したくない。いつ死ぬか分からないからこそ、自分がやりたいと思うことは何でもやってみよう。ガンを経験したことで、そんなふうに自分の考えが変わりました。もしガンになっていなかったら、今もきっと栃木で働いていたと思うんです。

 

東京で働くという夢を、夢で終わらせたくない。

 

夢の実現のため、家族を説得し、奥さんと息子との3人で東京にきました。

 

>守りの人生から、攻めの人生へ!

30歳までに世界各地に100店舗を。23歳のグローバルな新世代オーナー・京極 琉さんに迫る

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12歳で中国・上海から来日。日本語が苦手で、周囲に溶け込むのもままならなかった中学、高校時代を経て、美容専門学校入学と同時に美容師のキャリアを超ハイスピードで進みはじめた23歳のサロンオーナー京極琉(きょうごくりゅう)さん。

 

日本のサロンに勤務後、半年間のロンドン留学を経て、昨年赤坂に『Salon Ryu』をオープン。そのとき、弱冠22歳。さらに今年の10月には中国・武漢に2店舗目をオープン予定だそう。夢は「30歳までに、世界各国に100店舗」と語ります。

 

京極さんがなぜこれほどまでに壮大な夢を描けるのか。そのバックグラウンドを探ります。

 


 

日本語がわからないまま日本に。空白の6年間が始まる

 

母の仕事の都合で、12歳のときに上海から日本にきました。日本語がまったくわからない状態で来日したのもあって、日本人の友だちもあまりつくれなかった中学、高校時代。特に夢や目標もなく家でゲームをしたり、ダンスをしたり、中国人の友だちとばかり遊んでいました。

 

でも当時からなんとなく人前に立つ仕事がしたい、とは思っていたんですよね。

 

例えばダンサーとか、歌手とか。美容師もその延長線上に浮かび上がった選択肢でした。お客さまの前でキラキラ輝けて、しかも一生続けられる仕事。努力次第でさまざまな道に進めそうなことも魅力でした。

 

そんなわけで高校卒業後は、美容専門学校の夜間課程に進学。それと同時に美容室でアルバイトもはじめました。はじめは日本語もまだ得意ではなく、かなり苦労しましたね。アルバイト先では敬語や日本のマナー、日本人ならではの人間関係の築き方など、技術以外にもたくさんのことを教えていただきました。

 

大変でしたけど美容師になると決めたからには、早く誰にも負けないプロフェッショナルになりたかった。僕の中で「空白」になってしまった中学、高校時代の6年間を、一気に巻き返したい。そんな思いもありました。

 

毎日100枚の写真をチェック。それが感性の礎に

 

 

昼間は美容室で働いて、夜は専門学校に行く日々。そんな生活の中で「“みんなと一緒”で満足していたらダメだ」という焦燥感に似たものに、いつも駆られていたように思います。

 

そのころ自分に課していたのは、毎日100枚の写真を見て「いいな」と思ったものを保存すること。いろんなものを見て自分の感性を養うことが目的でした。アシスタントの立場でしたがサロンに無理を言ってカットセミナーに行かせてもらったり、自分の中で気になる美容師さんに連絡を取って、プライベートレッスンをしていただいたりもしていました。

 

美容専門誌やテクニック本を購入して、技術の研究も徹底的にやっていました。いかに過去を知り、知識を多く持っているか。これから自分のスタイルを築いていくために、それも大切だと感じていました。

 

先輩たちの中には「(まだアシスタントなのに)無駄じゃないか」という人もいましたね。でも僕には彼らに止められる理由がわからなかった。後悔なく全力でやる。それが僕のやり方だし、今でもそれでよかったと思っています。

 

クリエイションをはじめたのもアルバイト時代です。アルバイト先のサロンでは誰もやっていなかったので、他の美容師さんの作品写真を見て、見様見真似でスタートしました。僕が目指していたのは、確かな技術を持ち、クリエイションもできる「プロフェッショナルなアーティスト」という美容師像だったんです。

 

>21歳でロンドンへ! そこで京極さんが起こした行動とは?

 

アシスタント6年…“出戻り美容師”がHの人気ヘアデザイナーになるまで -美容師ステップアップー

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原宿の人気店H(エイチ)で活躍中のGoroさんは、アパレルブランドで働いていた経験がある“出戻り美容師”。一時期美容から離れたこともあり、デビューまでは通算6年かかったそうですが、その6年に無駄な時間はなかったと語ります。そもそも、なぜ美容師を辞めたのか、そしてなぜ美容師の世界に戻ってきたのかなど、Goroさんが今に至るまでのストーリーを話していただきました。

 


 

上昇志向の美容学生、はからずもシャンプーの達人になる

 

「美容師をするなら、東京で勝負したい」と思い、高校卒業後に静岡から上京しました。進学先は国際文化理容美容専門学校の国分寺校。渋谷校ではなく国分寺を選んだのは、渋谷という街にビビッていたから。野心はあるんだけれど、ちょっと腰が引けていました。

 

でも、美容師として成功したいと気持ちに噓はなかったし、学生時代はモチベーションの高い同級生にも刺激されて、かなり上昇志向でした。就職先を決めるときも、一秒も迷わず、表参道界隈のサロンに絞り込んでいたんですよ。

 

就職したのは、当時南青山にあったサロンです。そこは洗練されたセンスと、極上のおもてなしで、感度の高い人たちに支持されていました。完全予約制で妥協のない施術を提供しつつ、サロンのスペースを貸し出して展示会を開くなど、アートやクリエイティブの要素がとても強いところでしたね。学生時代、僕はセンスを磨くために美術館に頻繁に足を運んでいたし、雑誌よりもデザインのエッセンスが詰まった洋書を読むのが好きだったので、そのサロンは理想的な環境でした。

 

 

そこで僕は、徹底的に美容師の基本を叩き込まれました。カラーやパーマの基準が高いのはもちろん、「シャンプーの椅子を倒すところから空間づくりがはじまるんだよ」と言われて、テストに合格した後も3年間、毎日のようにシャンプーのチェックを受け続けたんですよ。なので、「僕はこのエリアで一番、シャンプーがうまいかも」と本気で思っていました。

 

ちなみに、Hに入ってからも、シャンプーの指名をいただいたことがあります。前のサロンでお世話になった方で、なんと広島からお越しくださったんですよ。感激しましたね。

 

デビュー直前、美容師を辞めてファッション業界へ転身

 

 

最初のサロンでは、シャンプーにはじまり、すべての技術において極めなければならないため、「いつになったらデビューできるのだろう…」という不安がいつもありました。そのころ、お客さまがプロデュースしているアパレルブランドのお手伝いしていたこともあり、美容師としての自分に見切りをつけて、アパレルブランドでお世話になることにしたんです。

 

僕が美容師を辞めたことを知った専門学校の同級生は、自宅に押しかけてきました。「これからどうするの?」「ブランクできたら戻れないぞ」とか、僕のことを思って真剣に話してくれました。実は僕も、美容の世界から離れたことで、「やっぱり美容が好きなんだ」と気づいていたんです。

 

ブランドのオーナーに素直な気持ちを話すと、美容師に戻ることを応援してくれました。でも、わずか半年間でしたが、服づくりに関われたことは幸せでしたね。

 

 >バトルを勝ち抜き、美容師に復帰

 

人まねではない「私なりのやり方」を見つけて ―たくさん失敗したからこそ見えてきたこと―

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「SORA」学芸大学店の副店長でトップヘアデザイナーの水野遥さん。副店長になるまでの日々は決して順風満帆ではなく、つらいこともたくさんあったと言います。「入社当初から、常にコミュニケーションの問題に取り組んできたように思う」と水野さん。問題とどう向き合い、乗り越えてきたのでしょうか。その道のりをおうかがいしました。

 


 

入社当時の厳しい指導に感謝

 

 

専門学校を卒業して一度就職したのですが、労働環境に疑問を感じ数ヶ月で退社。その後SORAと出会い、入社しました。今年で11年目になります。

 

入社当時に私の指導担当だった女性幹部は、厳しい人でした。とくに接客に関しては細かく指導を受け、泣いてしまったこともあります。でも接客は、間違うとお客さまにご迷惑をかけてしまいますから、一番重要な部分です。当時は本当につらかったけれど、今は叱っていただいたことに、感謝しています。

 

問題の存在に自分で気づき、答えを導き出す方法を伝えたい

 

 

後輩の育成は重要な仕事ですが、相手の性格によってやり方を変えていくことも大事だと思います。今は、私は私なりのやり方で、後輩に仕事を伝えていけたらいいなと。あまり厳しくすると、仕事が嫌になってやめてしまうこともあるので、仕事が嫌いにならないよう、フォローするようにしています。

 

「こうあるべき」と意見を押し付けるのではなく、どんな場面においてもお客さまの立場になって考える思考を身につけてもらいたい。それが身につけば、こちらから細かく注意しなくても、問題に自分で気づくことができ、答えも自ら導き出していけるようになると思うんです。

 

後輩とのコミュニケーションの壁にぶつかって

 

 

後輩への接し方も、今のやり方にいきつくまで、いろいろありました。入社2〜3年目のときにアシスタントリーダーになりましたが、伝えるべきことがうまく伝わらないという葛藤を抱えていました。後輩の指導がうまくいかないのに加え、上司からも「下が育たないのは指導に問題があるからでは」と指摘を受け、ストレスが積み重なって過呼吸で倒れ、救急車で運ばれたこともあります。その時期が一番つらかったですね。

 

でも、救急車で運ばれるという極限状態を経験してから吹っ切れ、自分を客観的に見つめられるようになりました。「伝えなきゃ」という気持ちが先走り、コミュニケーションが一方通行になっていたことに気づいたんです。その後は、どうしたら相手にこちらの言葉がきちんと届くかを考えて伝えるようにしたら、問題が改善されていきました。

 

昨年、副店長となり、「指導者を育てる」という新たな役割が加わりました。それぞれの指導方法にある程度まかせ、見守るべきところは見守りながらも、接客に関しては、抜けがないよう、しっかり伝えていきたいと思っています。

 

みんなが働きやすいサロンにしたい!

 

 

副店長になってからは、みんなが働きやすい環境にするには、どうしたらいいかを考えるようになりました。それを知るためにも、スタッフたちとできるだけ一緒にごはんに行き、仕事とは関係のない話も、ざっくばらんにするようにしています。日頃思っていることをとことん聞き、どうしたら問題が解決するのか、一緒に悩みながら考えるようにしています。

 

自分がアシスタント1年目のときは、自分から先輩や上司に相談できず、行き詰まってしまったこともありました。同期に話すのは相談というより愚痴になってしまうことが多いので、相談できる先輩を持つのはとても大事なことです。

 

>ここまで頑張ってこれたのは憧れの上司たちがいたから

 

メンズヘアが動く!  ”ネオホスト櫻遊志さん”と考える男気ヘア【前編】

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今、話題の“ネオホスト”という職業をご存知でしょうか? 長髪+スーツというホストのイメージとは違い、ネオホストは短髪でファッショナブル。それでいてK-POPスターのような風貌とトレンド性を兼ね備えています。そんなネオホストの第一人者として抜群の知名度を誇る櫻遊志(さくらゆうし)さん。実は櫻さんのネオホスト路線のきっかけは、ある美容師の存在が大きく影響していたのです。

対談インタビューは前編・後編の2回、今回は前編です。

 



櫻遊志さんとKUNIさん(L.DORADO)の出会いは5年前だそうですね。長髪だった櫻さんをバッザリと短髪に大変身させ、それがきっかけにネオホストという新ジャンルが確立されました。きっとKUNIさんにとっても櫻さんは特別な存在なのでは?

 

KUNIさん「出会いはヘアカタログの撮影でした。モデルだった櫻くんが気に入ってくれて、プライベートでもサロンにきてくれるようになったんです。以来、付き合いは5年になります」

 

櫻さん
「KUNIさんと初対面でお会いしたとき、とても話しやすい人だなと思いました。自分自身、ファッションへのこだわりもあるし、職業柄、ヘアスタイルで自分をどう演出するかをつねに考えています。俺の要望全部に耳を傾けてくれて、面倒くさがらずに理解しようとしてくれたのがKUNIさんでした」


 

KUNIさん
「そうそう。こんなに厳しくて難しいオーダーをするのは櫻くんだけなんです。作ったヘアをダメ出しするわ、こちらからの提案もあっさり却下するわで、何度もへこみました(笑)。それでも櫻くんのストイックな姿を見ているから、逆にモチベーションがあがるわけ。この人を納得させたら、自分はもっと上手くなる! そう思ったら逆に闘志がわいてきたりするんです!(笑)」



櫻さん「もし変にプライドの高い美容師さんだったら、不機嫌な顔をしてしまうはずです。そうなったら俺だって言いづらいですよ…。その点、KUNIさんは、自分の話をどんどん聞いてくれる。だから正直に心を開いて話しやすかったんです」

 

>ネオホストが誕生した話題のヘアカット

 

ネオホスト櫻遊志さん VS 美容師KUNIさん。ちょっと羨ましい関係 【後編】

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今、話題のネオホストの第一人者として抜群の知名度を誇る櫻遊志(さくらゆうし)さん。美しいビジュアル写真で展開するインスタグラムの影響もあって、今や櫻さんのヘアを真似るメンズも増えている様子。そんな櫻さんが絶大に信頼する美容師こそが L.DORADOのKUNIさんです。今、メンズヘアシーンに影響力を持つお二人に話を聞きました。

対談インタビューは前編・後編の2回、今回は後編です。

 

>前編はこちらから

 



KUNIさんにとって、櫻さんは自分の育ての親だとインスタグラムでも公言されています。櫻さんから学んだことはどんなことですか?

 

KUNIさん
「櫻くんの存在自体がカリスマなので、櫻くんのヘアにしたいといってこられるお客さまも多いんです。1日5人くらいは、櫻くんのヘアをオーダーされていますよ。やはり櫻くんが特別な存在感を放っている要因の一つは、自分に厳しく、常にストイックであること。そして美意識の高さ! 10日に一度のペースでサロンにきてくれていますよね? 過去には3日に一度の頻度だったときもあるし!」




櫻さん
「昔は刈り上げにするのに1時間半くらいかかっていましたよね(笑)。しかも最後のチェックで、何度も僕がダメ出ししたり。刈り上げのグラデーションが上手くいかなくて、やり直していたら、最後にはハゲができたことも。そのせいで俺がちょっと不機嫌になるというパターンもあったかな(笑)」


 

KUNIさん
「コレ、本当は書かないでほしいのですが、櫻くんが本番で、お客さまが練習でした。櫻くんがくる日が分かったら、その前に猛烈に練習をする。ウィッグでは正直刈り上げの練習にはならないんで、お客さまで試すしかないんです。しかも櫻くんからは毎回、宿題を出されるので、その課題をこなすために一生懸命練習しましたよ」

 

>櫻さんとKUNIさんの理想的な関係の秘訣とは?

 

大阪と東京。2回のリセットを選んだのは2つのルーツがあったから―CODE+LIM ワタローさんの働く理由

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次世代のサロンリーダーを期待される若手スタイリストに聞く「このサロンで働く理由」。今回はサロンワークだけでなく、美容学校の講師やヘアメイクとしても活動し、マルチな才能で今後が期待される『CODE+LIM(コードプラスリム)』のワタローさんの働く理由をうかがいます。

 

「CODE+LIM」の前身となる原宿「LIMCODE」との出会いをきかっけに、LIMの故郷である大阪で美容師人生をスタートさせたワタローさん。4年間のアシスタント時代を経て、スタイリストデビューの場所に選んだのは東京・原宿でした。大阪と東京、2回に渡るゼロからのスタートを選択した理由とは。

 


 

運命の出会いから、LIMへ一直線

 

 

僕はベルエポック美容専門学校に通っていたので、原宿が通学路でした。表参道はモデハンをしている美容師さんがたくさんいるエリア。それが見慣れた風景でした。

 

ある日、その中で尖ったファッションをしたおしゃれな軍団を見かけるようになり、気になっていたんです。のちに、その人たちがLIMCODE のスタッフだと知りました。それでサロンに行ってみることにしたんです。

 

行ってみたら、みんな関西弁で(笑)。関西弁のノリやテンションに流されて、もみくちゃにされたのがすごく楽しかったんです。それまで美容室はもっと緊張する神聖な場所だと思っていたのですが、LIMではじめて “楽しかった”と感じました。

 

関西弁のソフトな口調で「足もと気ぃつけてや」とか「またね」とか。相手からしたら普通の対応なんでしょうけど、温かく感じたんです。しかも、そう感じさせてくれることが羨ましくて。「ここで働きたい」と思うようになりました。

 

ポジティブ男が味わった、人生初の挫折

 

 

学生の間はずっとLIMに通って、卒業後はLIMへ入社しました。原宿のサロンに就職を決める同級生が多かった中、自分は憧れの人たちのルーツを辿りたいと思い大阪での勤務を決めました。「こういう人になりたい!」と思った人たちが大阪育ちなら、僕も大阪で勉強しようと思ったんです。

 

大阪でアシスタントとして働いてきた4年間、僕がずっと考えていたことは「大阪で一番目立つアシスタントになろう!」ということ。でも最初は、関西のノリには慣れないし、友だちはいないしで、はじめての環境ばかり。入社後3カ月はストレスで吐くこともありました。

 

もともとポジティブで悩んだりしないタイプなんですが、こんな自分もいるのか、とはじめて挫折を味わいましたね。でも仕事に打ち込み、日に日に友だちも増えいくと、関西のユーモアにも慣れてきて、今では「めっちゃ楽しかった!」と言えます!

 

>寝る時間すらもったいないと感じた4年間のアシスタント時代


圧倒的な量が質を生む! アシスタント時代に日本武道館に立った“MINX期待の星“ -MINX 後藤 晃成さんU29次世代美容師-

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次世代美容師として注目される「U29美容師」のサクセスストーリーから、成長のヒントを「美容師のタマゴ」へお届けする企画「U29次世代美容師」。第31回目は、人気美容室MINXの若手注目株、後藤 晃成(ゴトウコウセイ)さん。

 

アシスタント時代に「ナプラドリームプラス」で入賞した実力の持ち主です。全国から優秀な人財が集まるサロンで、なぜ高橋さんが輝きを放つことができるのか、その理由を聞きました。

 


 

高校野球の強豪校を卒業後、社会人野球の道に進むつもりだった

 

 

実家が美容室なので、子どものころから美容は身近な存在でした。身近すぎるからこそ、あまり興味を持つことができず、高校3年生の夏まで美容師という選択肢は全く頭になかったんですよ。甲子園出場歴のある強豪校で野球をしていて、社会人野球のチームからお誘いもあったので、高校卒業後も野球を続けるつもりでした。

 

ちなみに、高校時代は死にそうになるくらいキツイ練習をこなし、糖分をさけるなど食生活まで徹底的に管理されていました。好きなものも満足に食べられない、地獄のような日々だったので、お金を積まれてもあのころには戻りたくないです(笑)。

 

野球漬けの生活を送っていた僕が美容専門学校に進学することになったきっかけは、友人からの誘い。名古屋で遊ぶついでくらいの気持ちで、美容専門学校のオープンキャンパスに参加しました。そこで、シザーで半パネル切るとか、アイロンを使って先輩の髪をつくるとか、簡単な体験をさせてもらったのですが、いつも親の仕事ぶりを見ていたからなのか、要領よく手を動かすことができたんです。その場にいる人たちにも驚かれ、「僕が求めているのはコレかもしれない…!」と電撃が走ったんですよね。

 

朝から晩まで練習ざんまい! 夏休みも毎日学校へ

 

 

オープンキャンパス以降、美容師になりたいという気持ちが膨らんでいたものの、社会人野球の話もありましたし、早く自分で生計を立てられるようになりたいという気持ちが強かったので、「美容学校に通いたい」と言い出せませんでした。

 

そんなある日、鞄の中に入れたままになっていた美容学校のパンフレットが母に見つかりました。僕は興味がないフリをして、「行くわけないでしょ」と答えたんです。そうしたら、母が「子どもの挑戦を応援するのが私の夢。やりたいことをやりなさい!」と背中を押してくれたんです。社会人野球に進めば大手企業で働き、安定した生活が望めるのに、子どものやりたいことを応援する親心に感動しました。

 

こうして僕は、名古屋理容美容専門学校に進学することができました。名古屋理容美容専門学校を選んだ決め手は、学費が安く、土日に提携している美容室でアルバイトできること。アルバイト代は学費に充てていました。入学後は、「とにかくやらなきゃ」という謎の強迫観念にとりつかれて、仲間と一緒に朝から晩まで練習ざんまい。夏休みも毎日学校に行っていました。

 

先生から「お前らまだ18歳だろ? 遊べ!」と言われたことがありましたが、「行くことないですから」と答えて、ご飯を食べる時間以外はずっと練習していましたね。おかげで成績はいつも上位。みんなが見えるところに成績が貼り出されるのですが、そこに自分たちの名前が出ていることがモチベーションでした。

 

モデルハントでの奮闘が評価され、スタープレイヤーのアシスタントに

 

 

MINXを受けたきっかけは、業界誌で代表取締役社長の岡村の作品と、自伝的なインタビュー記事を見て、心底憧れたからです。実際に東京の店舗にいき、取締役の中野にカットをお願いして、カットの巧さと、完成したカッコいいスタイルに感動しました。また、MINX出身者にはCANAANの長崎さんやTierraの三笠さんなど、独立後にさらに輝いている人も多いので、MINXには得られるものが多いと考えたんです。

 

入社1年目はとにかく、仕事を覚えてやり遂げることに一生懸命でした。必死すぎて記憶がないくらい。1年目の終わりからモデル係になって、撮影用のモデルさんを集めていたのですが、これがまあ大変でした。

 

大変だったのは、僕自身が高いレベルの仕事がしたかったからでもあります。例えば、先輩に撮影が入ったときに、モデルさん5人くらいの写真をズラッと並べて、「どのモデルさんがいいですか!?」と聞くくらいのテンションでやっていました。

 

モデルハントの時間が長く、フロアにいないことも多かったので、僕に対して「あいつ、なんでいつもいないの?」と思っていたスタッフもいたようです。僕は休みの日もモデルハントやモデルさんの手配をしていたので、大変さを理解してもらえないのは辛かったですね。

 

でも、中野がそのことを分かってくれて、「俺らが見てやる」とチームメンバーとして迎えてくれたんです。仕事に厳しい人たちなので、しこたま叱られましたけれど、スターたちの仕事ぶりを間近で見て学ぶことができました。

 

>周囲の見る目が変わったきっかけ

“なにもない”からスタートして10年。gricoが広げた美容師の仕事の幅 −10年サロン「grico」のブランディグストーリー前編

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オープンから10年続けられるサロンは、たったの5%といわれている美容室経営。

 

新連載「10年サロンのブランディングストーリー」では、オープンから10年続く美容室の“サロンブランディング”に焦点を当て、オーナーへのインタビューから、長く続くサロン経営のコツを探っていきます。

 

第1回はこの8月に10年目に突入したばかりの『grico』代表のエザキヨシタカさんのもとへ。

 

激選区・原宿に24歳という若さでサロンをオープン。

スタッフやお客さまを「家族」と呼ぶ独特の経営方針や、オンラインサロン「マルチバース」の立ち上げなど、常に注目を集めてきたエザキさん。独立前夜から10年目以降の未来をぎっしり詰め込んでお届けします。

 

「ルールは自分でつくるもの」。そう話すエザキさんが、築いてきた新しい形の美容室とは?

 

インタビューは前編、後編の2回。今回はgricoの原点がわかる前編です。

 


 

『grico』10年の歩み

【前編】 

 

 

【後編】 

 

 

 

> オープン1週間前の契約破棄!? gricoの10年がはじまる前夜

 

 

苦しくても続けた「任せる主義」のサロン運営。結果が出始めたのは5年目からだった −10年サロン「grico」のブランディグストーリー後編

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オープンから10年続けられるサロンは、たったの5%といわれている美容室経営。

 

新連載「10年サロンのブランディングストーリー」では、オープンから10年続く美容室の“サロンブランディング”に焦点を当て、オーナーへのインタビューから、長く続くサロン経営のコツを探っていきます。

 

第1回はこの8月に10年目に突入したばかりの『grico』代表のエザキヨシタカさんのもとへ。

 

激選区・原宿に24歳という若さでサロンをオープン。

スタッフやお客さまを「家族」と呼ぶ独特の経営方針や、オンラインサロン「マルチバース」の立ち上げなど、常に注目を集めてきたエザキさん。独立前夜から10年目以降の未来をぎっしり詰め込んでお届けします。

 

「ルールは自分でつくるもの」。そう話すエザキさんが、築いてきた新しい形の美容室とは?

 

インタビューは前編、後編の2回。gricoのスタッフ教育の歴史も垣間見える後編です。

 

【後編】

 

 

 

前編を見る>>

 

>2年目からスタッフに任せた若手教育がやっと軌道に

 

23歳で新規出店を任された美容師の、マイポジションのつくり方—ALIVE 白土諒さんの働く理由

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次世代のサロンリーダーを期待される若手スタリストに聞く「このサロンで働く理由」シリーズ。今回は新進気鋭のサロン「ALIVE」で、入社4年目にして新店の店長を任された白土諒(しらとりょう)さんを訪ねます。

 

SNS上で有名なあの“はんぺん”さんこと、中村雄樹さんと同期の白土さん。強烈なキャラクターを持つライバルを隣に見ながら、どのように自分らしい成長の道筋を見つけていったのでしょうか。なりたてほやほやの店長エピソードを中心に、白土さんに「働く理由」を語っていただきます。

 


 

今の売上と、新しい挑戦。天秤にかけて勝ったものとは?

 

店長の話をもらったのは、昨年末のことでした。そのときはまだ吉祥寺店のオープンが決まっておらず、それまで働いていた表参道店の店長に、という話でした。その後、吉祥寺への出店が決まり、それを聞いて自分から直訴して吉祥寺店の店長を務めさせてもらうことになりました。

 

新しくオープンするお店の店長……。絶対に楽しいだろうなと思ったんです。

 

表参道や原宿とは違う郊外といわれる街で、自分がどれだけできるのかを試したい気持ちもありました。新しいことにチャレンジするワクワク感ももちろんあった。それにこの年齢でいちからお店をつくる経験なんて、そうそうできることではありません。このチャンスを逃したくない。そう思いました。

 

直訴したのはスタイリストデビューして半年が経ったころでした。売上も伸びてきていたし、働く土地を移るリスクはもちろんわかっていました。でもそれと天秤にかけても新しい挑戦への期待のほうが、僕の中では圧倒的に勝っていたんです。

 

若い力を生かして原宿、表参道のALIVEに負けないお店に

 

 

オープンの2ヵ月前からスタッフとミーティングを重ね、価格帯からメニュー構成、その他すべてのルールを一緒に決めていきました。表参道店、原宿店のいい部分は受け継ぎながら、新しくするところは新しくしていこう。そんな気持ちで、一つひとつ確認していく作業でした。

 

その中でみんなにずっと伝えてきたのは、なんでも楽しんでやろうということと、新しいことにどんどん挑戦していこうということ。

 

吉祥寺店は他の2店舗と比べてもスタッフの年齢が若いお店です。若い世代の得意分野でもあるネットを使った発信を、これまで以上に強くしていこうと話しました。今はALIVEでは少なかった動画での発信を強化したり、インスタグラムのカルーセル投稿など新しい機能を積極的に使うことなどを意識しています。

 

サロンの方針を決めるにあたり、もう1つ挑戦したのは価格帯です。

 

吉祥寺は表参道・原宿エリアよりも低価格帯サロンが多いエリアですが、表参道店と変わらない価格設定にしました。価格を下げるとお客さまはくるかもしれないけれど、経営のバランスも変わるし、スタッフの売上も上がるとは言い切れません。

 

僕がつくりたいのは若い人が売上を上げられて、「ALIVE」の表参道店や原宿店に負けないお店。価格でお客さまにきてもらうのではなく、スタッフそれぞれが自分と向き合って努力し続け、将来的にしっかり売り上げられるお店に成長していくことをねらいました。

 

>発信力強化と高価格帯という選択。その結果はいかに!?

「メンズヘアの達人です」と公言!  1年間で2000人をカットするメンズヘアのスペシャリストに直撃! ―SARY畑成美さん

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男性比率の高い女性美容師のほとんどは、意図しないまま、結果を見たら比率が増えていたというのが実情ではないでしょうか。そんな中、今回登場するSARY(サリ)の畑成美(はたなるみ)さんは、「私はメンズカットの達人です!  私が世界中の男性をかっこよくします」と公言するほど、メンズカットに魅入られ、メンズ顧客をターゲットに定めているそう。

 

なぜメンズにこだわるのか? そしてその自信の源とは? 率直な疑問からメンズ専門スタイリストとしての野望まで、あらゆる角度から迫りました。

 


 

尊敬する先輩が、私の個性を伸ばしてくれた

 

 

私がメンズスタイリストになったのは、SARYのオーナーである田中一輝の言葉がきっかけでした。田中と出会ったのは、まだ美容学生のとき。勉強のためにさまざまなサロンを巡っているときに、担当だったのが田中でした。「この人と一緒に働きたい!」と強く思い、学生時代はずっと客として通いながら入社試験を受けたんです。しかし、晴れてそのサロンに就職できたにも関わらず、まさかの入れ違い。田中は他のサロンに移ってしてまっていました。

 

そのサロンでアシスタントとして働きながらも、田中にはことあるごとにさまざまなことを相談してきました。私がカット、その中でも特にショートスタイルが好きなことや、ファッションもメンズっぽいカッコいい雰囲気が好きなことなどを話すうちに「それを打ち出していけばいい」というアドバイスをもらったんです。そのとき、自分の目指す道はメンズかも、と思うようになりました。

 

その後、田中を追いかけてサロンを移り、そこでスタイリストデビューさせていただいたのですが、お店でも“メンズカットに特化したスタイリスト”という打ち出し方をしてくれたので、認知されるのは早かったと思います。

 

実は、最初は女性のお客さまも担当していました。でもブログなどで“メンズ専門”ということを積極的に発信していった結果、1年間でお客さまの98%が男性になりました。

 

メンズ客はどこからやってくる?

 

 

2017年の10月に田中がSARYをオープンさせました。建築家の谷尻誠さんによるクールな空間、お客さま一人ひとりとじっくり向き合うことができるスタイルが、男性のお客さまにも好評で、モードファッションや建築が好きなお客さまが増えました。

 

お客さまの年齢は10代から50代までバラバラですが「メンズが得意って書いてあったので」とか「彼女から、この人はメンズ専門だからと言われてきました」とおっしゃる方がけっこういますね。

 

あと、実は男性ってサロン選びに悩む方が多いんです。女性の場合は自分がキレイになりたい、このスタイルがしたい、という動機でサロンを選ばれる方が多いと思いますが、男性の場合は担当する人がどんな人なのか、そのサロンに行って場違いにならないかなど、不安を抱えていらっしゃることが多くて。

 

そんな人たちにとって、私がブログやSNSで「メンズ専門です!」と宣言していることって、安心材料になり、来店につながるんです。また、ブログにはヘアスタイルだけでなく、仕事への思いや日常のことなどざっくばらんに書いています。そのおかげで私の性格も知って来店してくださる方も多く、初対面でのコミュニケーションもスムーズに行うことができます。中には、それでも来店まで心配…、と思われているお客さまもいます。そういう方にはLINEでやりとりをして、事前に不安を払拭できるように努めています。

 

>メンズ客が多いからこそ、気をつけていることとは?

「美容師と書道家を両立したい」漠然とした夢が、たった一言で変わった日―LAURUN TAISHIさん

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美容師兼書道家として活動するLAURUNのスタイリストTAISHIさん。スタイリストとして美容師業に励む一方、書家としても個展を開催するなど活躍の場を広げています。しかしここまでにくるまでの長い間、「美容師と書道家を両立したい」という想いを抱えつつも、一歩を踏み出せずにいたそう。

 

今回は、そんな彼が現在の活躍に至るまでの経緯と、ふたつの職業を両立する中で生まれたという、美容師としての強みに迫ります。

 


 

実家は神社!跡継ぎになる前提で書道を始めた

 

 

書道をはじめたきっかけは跡継ぎ教育の一環でした。僕の実家は神社なので、家を継ぐなら写経や芳名帳を書くために字が上手でなくては、と4歳くらいから書道教室に通っていました。書道は、上達して段を取得することが楽しかったし、後継になることも嫌だと思ったことはなく、むしろ家業を継げたらいいなぁと思っていたんです。

 

ですが、僕が中学2年生のころ、兄が家を継ぐことが決まりました。そこから「他にやりたい職業を探そう」と思い見つけたのが美容師でした。

 

地元はかなり田舎で、部活が終わって帰るころにはほとんどのお店は閉まっていました。その中で美容室だけはいつも明かりが点いていたんです。見た目はそんなにおしゃれなお店ではなかったんですけど、閉店後も中で練習しているおじさんの姿がすごくカッコよく見えて。美容師を目指すことを決めました。

 

同時に「いずれ書道家もやれたらいいな」という思いもあって、高校卒業までに師範の資格を取得しました。ですが、美容専門学校に通っている間は美容の勉強に専念していて、すっかり書道のことは忘れていました。

 

理想の美容師像を思い描いたとき、書道を思い出した

 

 

書道のことを思い出したのは、就職を考えたとき。当時はストリートファッション&ヘアにフォーカスした雑誌が美容学生の間でも大人気で、「誌面で活躍しているような美容師になりたい」と言う友人が多くいたんです。でも、僕は違いました。もちろん、カッコいいと思う美容師さんはたくさんいましたが、美容とは別に、もう一つ自分が持っているもので勝負できる美容師になりたいと思ったんです。そこで、“僕には書道がある”と思い出しました。

 

就職の面接では「どんな美容師になりたいですか?」と聞かれることが多かったんですが、そのときも頭に浮かぶのは、「カットで1番になりたい」とか、「売上No.1を取れるようになりたい」ということと同時に「美容師が本職だけど、書道と両立したい」という想いでした。

 

とはいえ、まずは美容師になることが先だと思ったので、就職と同時に書道をはじめようという気はありませんでした。そのときは、漠然と30歳くらいまでに美容師として成功して、そのうちに書道も何か形にしたいという想いだけが心の中にありました。

 

>書道家としても活動したい。再熱のターニングポイントとは?

 

湘南暮らし、サーフィン、メリハリのある職場…本気で望めばすべて手に入る! −Arouse by afloat Sea side− 独立theory

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人気サロンk-twoのディレクターなど、都内で輝かしいキャリアを重ねてきた松浦 裕哉(まつうらゆうや)さんは今、湘南・藤沢市にあるArouse by afloat Sea sideの代表として活躍しています。なぜ、松浦さんは都内で築いたキャリアを手放したのか、そして、新しい環境で「代表」になるまでどんな苦労があったのか語っていただきました。一般的な独立とは少し異なる「自分の城の築き方」や「自分らしい働き方」のヒントが詰まったインタビューです。

 


 

人気店のディレクターの肩書を捨て、スタイリストから再出発

 

 

前職のk-twoには何の不満もありませんでしたし、今も感謝しかありません。ただ、結婚して子どもができると、「家族との時間を充実させる」という新しい「やりたいこと」が生まれました。また、僕にとってサーフィンは生活の一部なので、「気軽に海に入ることができる街で暮らしたい」という願望もあったんです。

 

僕は「やりたいことがあるなら、やればいいじゃん!」って思うタイプなので、湘南に引っ越して、やりたいことを全部やろうと決めました。それまで仕事の面でもやれることは全部やって結果を出してきましたし、都内でなくてもお客さまを増やせる自信もあったので、東京を離れることに対して迷いはありませんでした。そこから1年間、東京と湘南を往復して仕事を引継ぎました。ただ、サロンを辞めると決めたときは、まだ行き先が決まっていなかったんですよね。

 

 

Arouse by afloat Sea sideに入ったのは、湘南に引っ越してから代表の高屋とよく飲むようになり、美容と向き合う姿勢などを語り合うようになって、意気投合したからです。店舗運営を一任される立場でやりたいと思っていたので、サロンの代表になるまでにクリアすべき売上目標などの達成条件を話し合い、お互い納得した上で入社しました。

 

k-twoでは結果を出していましたし、セミナーなどの社外活動もしていました。SNSなどを通じて、僕のことを知ってくださっている人もたくさんいます。けれども、それはあくまで都内だけの話であって、藤沢にきたら「あの人、誰?」状態。僕のことを知らない美容師さんばかりです。そんな状況で、新入りの僕が役職をもって始めてしまうと、サロンがギクシャクしてしまうため、ヒラのスタイリストとして、Arouse by afloat Sea sideでのキャリアをスタートしました。

 

>いざ湘南で働き始めると、お客さまがまったくいない状態に…!


7年後は100兆円の市場規模に! シニア専門のヘアメイク赤坂渉さんが見つけた本当の価値

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シニア専門のヘアメイクの第一人者として、数々のメディアに出演する赤坂渉(あかさかわたる)さん。2014年に開設された巣鴨にあるシニア専門フォトスタジオ「えがお写真館」の立ち上げをきっかけに、ライバルのいないシニア層をターゲットに据えました。 

 

えがお写真館の展開する事業は、すべてシニア・シルバー層向け。着々と事業の幅を広げ、海外への展開も考えているよう。

 

シニア層の市場規模は、一説によると、2025年には100兆円に達するとも言われています。そんな、業界で注目されている世代へのアプローチ。赤坂さんはどのように広げてきたのでしょうか。

 


 

一浪して入学した美大をやめて、ヘアメイクの世界に

 

 

僕は幼いころから芸術に興味があり、芸術系の高校に通い、美大に入学しました。でも、一浪して入学した大学では、期待していたような楽しさが感じられず、何のために芸術をやっているのかわからなくなりました。与えられた課題をこなしているだけに感じたり、一生懸命に作品を製作しても「よさがわかんない」と周囲から言われて、将来が不安になったり。

 

そんなとき、たまたま地下鉄ですれ違ったきれいな女性を見て、心が踊りました。僕も女性をきれいにする仕事をしたいと思い、ヘアメイクを目指すことにしたんです。芸術のよし悪しに比べると、きれいか、きれいじゃないかってすごくわかりやすいですよね。それで美大を辞め、ヘアメイクの専門学校に入りました。

 

ただ、実は僕、バンドもずっとやっていたんです。音楽で成功する夢を諦められず、バンド活動のためにヘアメイクの専門学校を途中で辞めたほど熱中していました。けど、自分より演奏がうまい人の姿を見てきて「僕はあのレベルになれないない」と悟り、●歳で再びヘアメイクの道へ。ヘアメイク事務所にアシスタントとして入りました。

 

競合がいない唯一の場所を選択。シニア専門を目指した経緯とは?

 

 

シニア専門のヘアメイクを打ち出したのは、以前から知り合いだった代表の太田から「新しいことをはじめないか」と誘われたのがきっかけです。

 

事業を立ち上げる1年前に、太田とカメラマンの吉原、そして僕の3人で「社長とカメラマンとヘアメイクがいる組織だったら何ができるだろう」という話をしていたんです。しかし、雑誌やメディアの撮影の現場で優れた先輩たちの姿を見ていたので、今から僕らが駆け足で走ってもその人たちには追いつけないだろうと感じていました。

 

そこで太田が「ライバルが誰もいない層を狙おう。シニアが一番面白いんじゃないか」と提案したんです。それを聞いて、タレントさんやモデルさんを喜ばせるヘアメイクの技術をシニアにそのまま活かしてみたら…と考えるとワクワクしました。今までシニア専門のヘアメイクはいなかったし、「老いた自分の姿が嫌い」というマイナスな気持ちを僕の技術で変えることができたら、とても喜んでもらえると思ったんです。それで、2014年にシニア専門のフォトスタジオ、えがお写真館をスタートさせました。

 

>事業が終わる寸前に起死回生! 広告費ゼロの理由とは?

SORA 北原義紀さんの“一番古い”お客さま—お客さまのひと言が、北原さんの美容人生を変えた

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第一線で活躍し続ける美容師さんに古くからのお客さまをご紹介いただく、シリーズ「一番古いお客さま」。SORA 北原義紀(きたはらよしのり)さんがご紹介してくださったのは、北原さんの美容人生を変えたといっても過言ではないというファッションデザイナーのお客さま。

 

お互いが駆け出しのころに出会った2人は、10年以上のブランクを経て、10年前に再び美容師とお客さまの関係に。若かりしころのお互いの印象と、今、相手に思うこと。クリエイターの目線で語っていただきます。

 


 

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板倉慶二さん

お客さま歴:理容室時代3年間+SORAにて10年くらい

職業:THE KEIJI/IJITデザイナー、株式会社イジット代表取締役

 

出会いは北原さんが理容室でシャンプーマンをしていたころ。

その後、2人はそれぞれのキャリアを歩み、

板倉さんは海外で展示会を開くほどのファッションデザイナーに、

北原さんは美容室の代表に。

 

10年以上のブランクを経て、10年前に再び美容師とお客さまの関係になったそう。

 

最近では板倉さんのブランド「IJIT」のルックブックのヘアはすべて北原さんが担当。

美容師とお客さまの枠を超え、チームとしての関係が生まれている。

 

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10年間のブランクを経て、美容師とお客さまの関係を超えた日

 

北原:板倉さんに初めて会ったのは、僕がまだ阿佐ヶ谷の理容室でシャンプーマンだったころですよね。板倉さんはフリーターで、先輩のお客さまでした。

 

板倉さん:フリーターって(笑)。ぷらぷらしていたわけじゃなくて、どうしても入りたい会社があって、そこへの就職活動中だったんですよ。

 

北原:そのころからおしゃれで、店のスタッフからも一目置かれている存在でした。ほとんどのお客さまがとにかく短く、すっきりと、というオーダーの中で、唯一切り抜きを持ってきていた人でしたし。

 

板倉さん:北原さんもお店の中でかなり目立っていましたよ。お店のユニフォームをデニムのシャツに変えさせたりしてさ。おもしろい奴だなと思っていたから、担当の人が退職した機会に北原さんに引き継いでもらったんだよね。

 

北原:あのときはうれしかったですよ! だって店長をはじめ、みんな板倉さんを担当したがっていましたから。それから僕がイギリスに行くまで3年間くらい担当させてもらったんですよね。

 

 

 

<本文つづき>

北原:実は板倉さんに聞きたいことがあって。僕がSORAをオープンして、また髪を切らせてもらうようになってからしばらくして、飲みにいったじゃないですか。そのときに「今のままじゃパリコレでのへアデザインなんかできないでしょ」って、僕に言いましたよね。

 

板倉さん:初めて一緒に飲みに行ったときだよね。

 

北原:そうです。しかもその1週間後にルックブックの撮影の電話をくれて…。確かに昔、「板倉さんのブランドがパリコレに出たときに、ヘアを担当したい」とは言いました。でもそのときの僕はいわゆる経営者になっていて、撮影とかクリエイションとか全然していなかった。板倉さんの指摘が図星だったんです。それなのになぜあのとき、あの言葉をかけてくれて、しかも撮影を依頼してくれたんですか?

 

板倉さん:なんか、感じたんだよね。今はクリエイティブから遠ざかっているかもしれない。でもきっかけさえあれば、必ず何かが起きるはずだって。

 

北原:あの言葉を言われた日から、僕の美容人生が変わったというか、活動の仕方やヘアのつくり方がすごく変わりました。

 

板倉さん:どんどん変わっていって、いろんなことにチャレンジしていく姿を見ているのは刺激になったよ。

 

北原:ルックブックもずっと担当させてもらっていますし。まさに今の僕の原点です。

 

板倉さん:僕の髪に欠かせない美容師さんであるだけじゃなくて、僕の仕事にとっても欠かせないチームの一員ですよね。

 

>お客さまから見た北原さんはどんな人?

 

OCEAN TOKYO高木琢也が初代コーチ! 前向き思考を鍛える部活動「ポジティ部」スタート!【前編】

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美容学校生やアシスタント時代は、さまざまな試練が降りかかります。夢と現実にギャップを感じたり、人間関係に悩んだり…心が折れそうになる瞬間がありますよね。そんなあなたの背中を後押しする企画「ポジティ部」がスタート! あきらめずに前に進んでいくメンタルトレーニングに明け暮れる部活動です! 第一線で活躍する美容師たちがコーチとなり、美容師を続けるメンタルやマインドを伝授します!

 

第一回目のコーチはNHKに認められメンズカットで不動の人気を誇るOCEAN TOKYO代表の高木琢也(たかぎたくや)さん。2015年には月間売上1200万円をたたき出し、予約は数カ月待ち、美容師のトップを決めるコンテストでは2年連続1位になるなど、華々しいキャリアを爆走する若きレジェンドです。

 

そんな高木さんですが、アシスタント1年目のとき先輩に「高木は肝心なときに決められる星の元に生まれていない」と言われていたそう。 

 

「高校も大学も公務員試験にも落ち、滑り止めで受けた専門学校まで落ちるくらい人生うまくいったことがない。サッカー部ではキャプテンだったけど、決勝戦の肝心なシーンでPKを外すのは俺、みたいな。でも、肝心なときに決められる星の元に生まれていないなら、自力で決められるまでやり遂げるしかない」と語る高木さん。

 

ピンチだらけの人生から生まれたポジティブ思考を学びたいと思います。ポジティ部は前後編の2回、今回は前編です。

 


 

◆◆◆ポジティ部のトレーニングメニュー◆◆◆

気になるトレーニングをclick!

 

>【Training 01】ピンチからポジティブ思考を鍛えよう!

 コーチが体験したピンチをもとに折れない心のつくり方、前向き思考をトレーニング!

 

>【Training 02】モチベーションを持続しよう!

 ポジティブな気持ちが続くために効果的な習慣や口グセなど行動のパターンを学ぼう!

 

>【美容師お悩みに高木琢也が答えます! Q&Aコーナー01】

 

>【Training 03】プラスのエネルギーで行動してみよう!(10月2日公開予定!)

 

>【Training 04】ポジティブな気持ちで人とつながろう!(10月2日公開予定!)

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

>肝心なところで決められない人生だからこそ編み出されたポジティブ思考

 

ピンチだらけの人生から生まれたポジティブ美容師、OCEAN TOKYO高木琢也がコーチ! 前向き思考を鍛える部活動「ポジティ部」!【後編】

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美容学校生やアシスタント時代には、夢を叶える過程で、さまざまな試練や心が折れそうになる瞬間があります。「ポジティ部」は、あきらめずに前に進んでいくメンタルトレーニングに明け暮れる部活動。美容学生、アシスタントのあなたの背中を後押しします!

 

夢を叶えて第一線で活躍する美容師たちがコーチとなり、美容師を続けるメンタルやマインドを伝授します。

 

第一回目のコーチはOCEAN TOKYOの高木琢也さん。前回に引き続き、ピンチだらけの人生から生まれたポジティブ思考から学びを得たいと思います。

 


 

◆◆◆ポジティ部後編のトレーニングメニュー◆◆◆

気になるトレーニングをclick!

 

>【Training 03】プラスのエネルギーで行動してみよう!

 ポジティブ思考で仕事をするとどんな結果が生まれる? 成功法則を聞こう。

 

>【Training 04】ポジティブな気持ちで人とつながろう!

 プラスのエネルギーで人と向き合うと、どんな効果がある?ポジティブなコミュニケーション方法を知ろう!

 

>【美容師お悩みに高木琢也が答えます! Q&Aコーナー】

 

 

>【前編(Training 01・02)はこちらから】

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

>「高木だからできた」ではない、イメージトレーニングの重要性

月40人の新規客を集めるインスタグラマー美容師が今日までやってきたこと -AWESOME 高橋 美穂さんU29次世代美容師-

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次世代美容師として注目される「U29美容師」のサクセスストーリーから、成長のヒントを「美容師のタマゴ」へお届けする企画「U29次世代美容師」。

 

第32回目は、外国人モデルも登場するセンスフルな作品をInstagramから発信しているAWESOMEの高橋美穂さん。フォロワーは1万7000人以上、Instagram経由での新規客は月40人もいるのだとか。今回はそんな高橋さんに売れっ子になるまでの歩みを振り返ってもらいました。

 


 

99%が大学進学する高校で専門学校を選択…先生に「本当にいいのか?」と聞かれる

 

 

小さいころから髪の毛を触るのが好きでしたが、最初になりたいと思った職業は美容師ではありませんでした。気になっていた職業は、人の心を癒す心理カウンセラー。高校1年生くらいまで本気でなりたいと思っていて、大学に進学するつもりだったんです。

 

そんな私が「美容師っていいな」と思うようになったのは、地元にあるオシャレな美容室に通うようになったことがきっかけ。「髪型が変わることで、自分の気持ちがこんなに変わるなんて…」と思ったんです。服装や髪型の規則が厳しい高校に通っていたので、髪色を変えたりはできませんでしたが、それでも少しウルフっぽくしたり、アシンメトリーを取り入れてみたり、できる範囲で新しい髪型にしてもらえるのが面白かったし、私も同じようにお客さまの髪に携わりたいと思うようになりました。

 

ただし、高校は99%くらいの生徒が大学に行く進学校だったので、美容師になりたいと伝えると先生から「本当にいいのか?」と聞かれました。有名大学に進学した姉も、私と同じ高校に通っていたので、余計に意外だったのでしょう。幸い、両親は私の夢を応援してくれました。私も美容師の世界に飛び込むことに不安はなかったし、「後には引けない。美容師として成功してみんなを見返したい」と心に決めていました。

 

 

美容学生時代から作品を撮りためフォトブックを制作

 

 

高校卒業後は山野美容専門学校へ。不器用だったので、とにかくコツコツと練習していました。そのおかげで、成績は悪くなかったのですが、ワインディングがどうしても苦手で…。苦手を克服するために「千本巻き」をしたことも。とにかく量をこなすことで、キレイにできるようになりました。

 

学生時代から作品撮りもしていました。学校の中にスタジオがあって、プロカメラマンさんに撮ってもらえるという企画があり、私は天使をイメージしたガーリーな作品をつくったことを覚えています。友だちをモデルにして、携帯のカメラで作品撮りをしたりもしていましたね。

 

就職活動のときには、それまで撮りためていた作品をまとめてフォトブックをつくり、面接のときに持参しました。原宿のサロンで働きたいと思ってたくさん受けたのですがことごとく落ちてしまいまして…。面接で話すのが苦手で、うまく自分の思いを伝えることができなかったんです。

 

結局、都心から離れたところにある地元のサロンで働くことになったのですが、どうしても原宿で働きたいと思っていたので、時間をつくって原宿に行き、気になるサロンで髪を切ってもらうようにしていました。現場の雰囲気を知るためには、実際に行くのが一番いいと思っていたからです。そうして半年くらいしたころに、運よく中途採用しているサロンを見つけて、そこで働くことができるようになりました。

 

度重なる転職に遭っても「絶対に雑誌に載りたい」と願い続けた

 

 

念願の原宿で働きはじめてからも、自分が想像していたのと全く違う客層のサロンだったり、勤めていたサロンが倒産したりなど、紆余曲折がありました。今に至るまで店舗を何回か移りましたし、フリーランスとして働いていた時期もあります。

 

目まぐるしく環境が変わっていましたが、そんな中でもいつも思っていたのは、「絶対に雑誌に載りたい!」ということ。目標を叶えるために、アシスタントやジュニアスタイリストだったころから、コツコツと作品を撮っていました。

 

ただし、普段はサロンワークとレッスンに専念し、作品撮りは基本的に自分の休日のときにしていました。好きでやっていることなので休みを使うことは全く苦痛ではなく、むしろ楽しいことでしたけれど。

 

モデルハントが得意だったので、作品撮りをするうえでとても役立ちました。かわいい子が好きなので、今も声かけるのは苦ではありません。普通に挨拶して、他愛のない話をして警戒心を解いて、協力してもらう…という感じです。「今日は暑いですね」とか「どんなスタイルが好きですか?」とか、そういう話のなかから共通点を探って仲良くなっていくのがコツなんですよ。

 

>集客の99パーセントがインスタグラム!


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